ORIYAMAKE

循環狩猟・地方観光について考えをまとめるブログ/瞑想登山家/秋田県北秋田市・森吉山麓モロビの里に生息しています。

ぐるぐるぐると首を絞めるもの

著名人が名もなき一般人の暴言に対して、一個一個ひろって反論することを最近よく目にします。雑魚狩りとも称される行動ですが、これを私自身ではどう考えたら良いか、寛容するか不寛容の態度をとるか、行ったり来たりしていたので記事にしてみました。

 現代の魔法使い(古くてすみません)こと落合陽一さんの話は面白いので、よく拝見しているのですが自身に対して批判的なツイートを引用RTをして反論(?)を載せています。もう少し年齢の低い方だと「リプ欄の説教ババアうざすぎワロタ」と一蹴してしまうようなところを、まさにひとつひとつ丁寧に相手をされている印象です。

 

大人げないなぁと思う気持ちと、いいぞもっとやれという気持ちと半々な感じ。

そんな時、リプ欄で渡辺一夫という方が「寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか」というタイトルで同じような悩みについて書いているというのを見ました。

渡辺一夫『寛容(トレランス)は自らを守るために不寛容(アントレランス)に対して不寛容(アントレラン)になるべきか』(『渡辺一夫著作集第11巻 偶感集(中巻)』、筑摩書房、1970、所収)

その方は「寛容は不寛容に対しても寛容であるべきだ」との見解。もちろんそれが出来れば苦労はしないですよね。でも何に対しても広い心を持つように努力はしなければならないでしょう。例え大事な人を殺されてしまっても、寛容な心で。でもこれは既に色々な人が思ったり考えたりしていることで【寛容のパラドックス】と呼ばれているそうです。

 

そうこうしているうちに、他の寛容・不寛容について言及されているブログも読みました。そこで書かれていることは頷けることばかりだったので少し引用させていただきます。

yamaguchimasashi.com

正義が強いと、自分の正義以外には不寛容になるがち。
正義あるあるですね。
これがまた自分が正しいと思っているからこそたちが悪いうえに、応援してくれる人の存在がそれを強化するので、ね。
応援してもらうためには、分かりやすい正義を輝かしく力強く打ち出さないといけないわけだから。よくよく自覚しておかないと。

単純で複雑。愛憎裏表。

私自身も自分の考え(正義)を他人に押し付けがちですが、自分としては、他の人がその人の考え方を他人に押し付けているのを見るとイライラしてしまいます。恥ずかしながら全く寛容になれていません。「あなたは自分が正しいと思って、良かれと思って言っているかもしれないが、それがどれだけ他の人、ひいては社会全体の可能性を狭めているか、それが分からないのか?」と言ってしまいます。自分自身も自分の考え方を相手に押し付けてしまっているわけです。

誰もが居場所がある、多様性のある社会を目指したいと常々思っていますが、自問自答をするたびに自己否定と自己肯定を行ったり来たりしているような気がしています。多様性のある社会、つまり人によって良いこと悪いことが違うのであれば、相手の発言だって人によって違うことのひとつであるし、自分が違うというものも多様性のひとつと考えられなくもないな…とどんどん思考が迷宮入りしている状態です。
誰かを貶めるような発言をする相手、嘲笑する相手、不寛容なことをする相手に対しては、寛容な態度で受け止める他には、こちらも不寛容な態度で臨むしかないのではないか。しかしその態度は、結局のところ自分自身も不寛容な存在となってしまうわけですが。

 この国では「他人を傷つけず自分も傷つかない」ことこそ、あらゆる行為を支配する「公理」である。したがってわれわれ日本人は他人から注意されると、その注意の内容がたとえ正しいとしえも、注意されたことそのことをはげしく嫌う。【<対話>のない社会 中島義道

何もしないことが最も楽なことは分かります。忠告はネットの言葉越しでは伝わったためしがない。正しいかどうかは二の次になってしまう。問題が本質からズレてしまい「注意された」そのことに注意が向いてしまうからです。注意の仕方や、誰が注意するか、タイミング、心の状態などなど考えなければいけない部分は多いですが。これからも色々なケースを検証して自分の行動も常に省みながら進んでいけるようにしたいと思います。いつも定期的に立ち止まって後ろを振り返られるように、とりま。